織田信長の国語テスト「大うつけ者」とよばれた少年の物語

織田信長のイラスト
織田信長(おだ のぶなが) 1534年〜1582年
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A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです

戦国時代でいちばん有名な武将、織田信長。けれども若いころは、家来からも近所の人からも「大うつけ(大ばかもの)」とよばれていました。ばかにされていた少年が、どうやって天下統一の一歩手前まで進んだのか。その道のりを、お子さんと一緒に読んでみてください。

「大うつけ」とよばれた少年時代

信長は、尾張の国(今の愛知県の西のあたり)の大名の子として生まれました。ふつうなら、行儀よく育てられるはずの立場です。ところが信長は、まったく違いました。

着物の帯をだらしなく結び、腰にひょうたんをいくつもぶら下げて、町を歩き回る。道ばたで栗や柿にかぶりつく。身分の低い若者たちと川で泳ぎ、相撲を取る。まわりの大人たちはあきれ、「うつけ者」——今でいえば「変わり者」「ばか者」——と呼びました。

父・信秀の葬式でも、事件が起こります。信長は正装もせずに現れ、位牌に向かって抹香(お香の粉)をつかんで投げつけ、さっさと帰ってしまったのです。列席していた人々は、「やはりあの子には家をまかせられない」とささやき合いました。

けれども、信長をずっと見守ってきた家来の平手政秀だけは、違う見方をしていました。政秀は、信長に生き方を改めてほしいと願い、みずから命を絶ちます。信長はその死を深く悼み、政秀のためにお寺を建てました。ふざけているように見えて、人の思いはきちんと受け止める少年だったのです。

そして、ここが大事なところです。信長が町でしていたのは、ただの遊びではありませんでした。身分に関係なく人と交わり、新しい物や情報に触れる——それは、当時の武士がだれもやらなかったことでした。この習慣が、のちに信長の一番の武器になります。

桶狭間の戦い——三千の兵で二万五千に勝つ

一五六〇年、信長二十六歳。駿河の今川義元が、二万五千ともいわれる大軍で尾張に攻めこんできました。対する信長の兵は、わずか三千ほど。だれが見ても勝ち目のない戦いです。

家来たちが「城にこもるべきだ」「降参するしかない」と言い争うなか、信長は何も答えず、じっと座っていました。そして夜が明けるころ、突然立ち上がると、『敦盛』という舞を舞い、湯づけ(お湯をかけたごはん)をかきこんで、たった数人の供だけを連れて城を飛び出したのです。

信長には勝算がありました。町を歩き回って集めた情報から、今川軍が桶狭間の狭い谷あいで休んでいることをつかんでいたのです。大軍も、狭い場所では思うように動けません。

折よく、激しい雨が降り出しました。雨音が足音を消してくれます。信長は雨の中を進み、雨がやんだ瞬間、休んでいる今川本陣めがけて一気に攻めかかりました。義元は討ち取られ、勝負はあっという間につきました。

この一戦で、信長の名は日本中に知れわたります。「うつけ者」と笑われた男が、天下取りの表舞台に立った瞬間でした。

だれよりも早く、新しいものを取り入れた

信長のすごさは、戦の強さだけではありません。「新しいものをためす力」でした。

そのひとつが鉄砲です。当時の鉄砲は、種子島に伝わってからまだ数十年の新兵器で、高価なうえ「一発撃つと次まで時間がかかって役に立たない」と考える武将が大半でした。ところが信長は大量に買い集め、長篠の戦いでは木の柵と組み合わせ、兵を交代させながら撃ち続ける戦い方を実行します。最強とうたわれた武田の騎馬隊は、この前になすすべもありませんでした。

もうひとつが、町づくりです。信長は琵琶湖のほとりに安土城を築きました。天守を持つきらびやかな城で、内部は絵で飾られ、外国から来た宣教師も驚いたと伝えられます。

そして信長は、その城下町で「楽市楽座」という決まりを出しました。それまで商売をするには、決められた組合に入り、税を納める必要がありました。信長はそれをやめさせ、「だれでも、自由に商売してよい」としたのです。人と物が集まり、町はにぎわいました。

戦のやり方も、町のしくみも、信長は「今までこうだったから」という理由では続けませんでした。

本能寺の変——天下を目前にして

一五八二年、信長は天下統一まであと一歩のところまで来ていました。

その年の六月、信長はわずかな供だけを連れて京都の本能寺に泊まっていました。そこを、家来である明智光秀の軍が取り囲みます。信長は自ら弓を取り、槍を取って戦いましたが、多勢に無勢。寺に火を放ち、四十九年の生涯を終えました。

光秀がなぜ主君を討ったのか。恨みがあったから、天下がほしかったから、だれかに命じられたから——さまざまな説がありますが、四百年以上たった今も、はっきりした答えは出ていません。

信長が敷いた道は、家来だった豊臣秀吉が受け継ぎ、天下統一が実現します。さらにその後を徳川家康が継ぎ、二百六十年続く江戸時代へとつながっていきました。

織田信長の年表

1534年尾張の国(今の愛知県)に生まれる
1549年ごろ「大うつけ」と呼ばれ、町を歩き回る日々
1551年父・信秀が亡くなり、葬式で抹香を投げつける
1560年桶狭間の戦いで今川義元を破る
1573年室町幕府をほろぼす
1575年長篠の戦いで鉄砲を使い、武田軍を破る
1576年琵琶湖のほとりに安土城を築きはじめる
1582年本能寺の変。四十九歳で亡くなる

もっと知りたい 織田信長の豆知識

「うつけ」ってどういう意味?

「中身が空っぽ」という意味の古い言葉です。今でいえば「ぼんやりした人」「ばか者」。当時の信長は、この言葉で笑われていました。

外国のめずらしい物が大好きだった

信長は宣教師から、地球儀や時計、ぶどう酒などを贈られています。地球儀を見せられたときには、世界が丸いという話をすぐに理解したと伝えられます。当時の日本人がまだ知らない品々を、面白がって受け取りました。

どんな見た目だったの?

宣教師ルイス・フロイスの記録によると、信長は背が高く、やせていて、声が高かったと伝えられています。

織田信長のテスト(小学1・2年生用)

印刷せずに、この画面のまま読んで答えることもできます。 答えはいちばん下にあります。

読みもの

子こどものころ、「大おおうつけ者もの」(大おおばかもの)とよばれていたぶしょうがいます。尾お張わりの国くに(今いまの愛あい知ち県けん)の織お田だ信のぶ長ながです。しかし、じつはだれよりも新あたらしいものがすきな、じゆうな心こころのもちぬしでした。

一五六〇せんごひゃくろくじゅう年ねん、桶おけ狭は間ざまの戦たたかいで、信のぶ長ながは大たいぐんをひきいる今いま川がわ義よし元もとにわずかな人にん数ずうでいどみ、見みごとにかちました。そのけっか、信のぶ長ながの名なは、日に本ほん中じゅうに知しられました。

また、てっぽうをいちはやく戦たたかいにとりいれ、戦たたかい方かたをかえました。琵び琶わ湖このほとりには安あ土づち城じょうという大おおきなお城しろをたて、お城しろのまわりでは、だれでもじゆうに商しょう売ばいができました。

しかし、天てん下かを一ひとつにするまであと少すこしのところで、信のぶ長ながはけらいの明あけ智ち光みつ秀ひでに本ほん能のう寺じでおそわれ、その一いっ生しょうをおえました。

えらぶ問題

  1. 信のぶ長なががいちはやく戦たたかいにとりいれた、新あたらしいぶきはどれですか?

    • ①ゆみ
    • ②てっぽう
    • ③やり
  2. 信のぶ長なががたてた、大おおきなお城しろはどれですか?

    • ①大おお阪さか城じょう
    • ②安あ土づち城じょう
    • ③江え戸ど城じょう

書く問題

  1. 信のぶ長ながのまちでだれでもできたことは何なんでしょうか?

  2. 信のぶ長ながを本ほん能のう寺じでおそったけらいはだれでしょうか?

漢字の問題

かん字に直して書きましょう。

  • ⑴うま
  • ⑵つよい
  • ⑶ぜんご
答えを見る

えらぶ問題 ⑴②⑵②

書く問題⑴しょうばい ⑵あけちみつひで

漢字⑴馬 ⑵強い ⑶前後

書く問題は、答えと言葉づかいがちがっても、 意味が合っていれば○にしてあげてください。

プリントの見本

👨‍👩‍👧 おうちの方へ

丸つけのあと「ばかってよばれて、信長はどんな気持ちだったと思う?」と聞いてみてください。自分の言葉で答えられたら、読解力の芽が出ています。

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A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです

織田信長に会いに行く

  • 安土城跡滋賀県近江八幡市

    信長が琵琶湖のほとりに築いた城の跡です。天守は本能寺の変の直後に焼け落ち、今は石垣と大手道の石段が残っています。四百年前の石段を自分の足で登れる場所です。

  • 本能寺跡京都市中京区

    信長が最期を迎えた本能寺は、当時は今の場所ではなく、ここにありました。現在は石碑が立つだけの、静かな市街地です。

  • 清洲城愛知県清須市

    「大うつけ」と呼ばれていたころの信長が拠点にした城です。ここから桶狭間へ向かいました。今の天守は後に建てられたものです。

※ 開館日・時間・料金は変わることがあります。おでかけの前に、 各施設の公式ページでご確認ください。