厳島の戦いの国語テスト神の島でおきた、四千 対 二万の大逆転

厳島の戦いのイラスト
厳島の戦いいつくしま の たたかい) 1555年安芸の国(今の広島県)
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A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです

海の中に大きな鳥居が立つ、厳島。今では世界遺産として世界中から人が訪れる場所です。この神の島で、四百年以上前、五倍の敵を破る大逆転が起きました。仕掛けたのは、知恵で勝つことにかけては当代一の武将・毛利元就でした。

五倍の敵

一五五五年、安芸の国(今の広島県)で、二人の武将が向かい合いました。

一方は陶晴賢。もともと大内という大名に仕えていましたが、その主君を倒して力を握った武将です。その軍はおよそ二万。

もう一方が毛利元就。当時はまだ、大内家の下にいる一豪族にすぎません。集められた兵は、わずか四千ほどでした。

五倍の差です。正面からぶつかれば、結果は考えるまでもありません。だから元就は、正面からはぶつかりませんでした。

おとりの城

元就がまず行ったのは、厳島に小さな城を築くことでした。宮尾城といいます。

これは、わざと弱そうに見せた「おとり」でした。晴賢が「あんな小さな城なら簡単に落とせる」と考えて島へ渡ってくるように、仕向けたのです。

なぜ島に誘い込むのか。厳島は狭い島です。二万の大軍がひしめけば、身動きが取れなくなります。逆に少ない兵なら、狭さは不利になりません。数の差を消してしまう——それが元就の狙いでした。

元就は、うわさを流したり、家来を裏切ったように見せかけたりもしたと伝えられます。晴賢は誘いに乗り、二万の軍で島へ渡って宮尾城を取り囲みました。

この時点で、元就の計画は半分成功していました。

嵐の夜、海を渡る

元就が動いたのは、嵐の夜でした。

波は高く、風は強い。だれもが「こんな夜に海を渡れるはずがない」と思う夜です。晴賢の軍も、当然そう考えて油断していました。

けれども元就には、味方がいました。村上水軍です。瀬戸内海を知りつくした海の武士たちで、嵐の海でも船を出せる腕を持っていました。

元就の軍はこの船で島の裏側に渡り、真っ暗な山を越えます。そして翌朝、陶軍の背後から一気に攻めかかりました。

前からは宮尾城の兵、後ろからは元就の本隊。不意をつかれた陶軍は大混乱におちいります。狭い島では逃げ場もありません。晴賢は敗れ、この一戦で勝負は決しました。

神の島を、元通りに

この戦いは、日本三大奇襲の一つに数えられています。奇襲とは、相手が思ってもいないところを突く戦い方のことです。

勝利をきっかけに毛利家は一気に力を伸ばし、やがて中国地方のほとんどを治める大名になりました。

ただ、元就には気がかりがありました。厳島は神の島です。そこを戦場にしてしまったことを、元就は深く気にかけました。

戦いのあと元就は、島を清め、傷んだ社を修理させます。その後も厳島神社を手厚く守り続けました。

今、多くの人が訪れる厳島神社の姿には、元就が守り伝えたものも含まれているのです。

厳島の戦いの流れ

1551年陶晴賢が主君の大内義隆を倒し、力を握る
1555年 春毛利元就が厳島に宮尾城を築き、おとりにする
1555年9月陶晴賢が二万の軍で島へ渡り、宮尾城を囲む
同月 嵐の夜村上水軍の船で、元就の軍が島の裏側へ渡る
翌朝背後から奇襲。陶軍は総崩れとなり、晴賢が敗れる
その後元就は島を清め、厳島神社を守り続ける

もっと知りたい 厳島の戦いの豆知識

「日本三大奇襲」とは

厳島の戦いのほか、織田信長の桶狭間の戦い、源義経の鵯越(ひよどりごえ)を合わせて、日本三大奇襲と呼ばれます。少ない兵が大軍を破った、有名な三つの戦いです。

村上水軍ってどんな人たち?

瀬戸内海を拠点にした海の武士団です。潮の流れを知りつくし、船の扱いにたけていました。元就は日ごろから村上水軍と親しくし、この一戦で力を借りたのです。

厳島神社は世界遺産

海の中に立つ大鳥居で知られる厳島神社は、1996年に世界遺産に登録されました。広島県廿日市市にあり、宮島とも呼ばれています。

プリントの見本

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「どうして元就は、わざと島に敵を呼びこんだと思う?」と聞いてみてください。「狭いと大軍が動けないから」まで自分の言葉で説明できたら、文章がしっかり読めています。

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この戦いに関わった武将は、小学1・2年生向けの「戦国武将シリーズ」でも読めます。