川中島の戦いの国語テスト五回戦っても、決着がつかなかった

A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです
ふつう、戦いには勝ち負けがつきます。ところが武田信玄と上杉謙信は、十一年のあいだに五回も戦って、とうとう決着がつきませんでした。なぜ、これほど長く戦い続けたのでしょうか。
「甲斐の虎」と「越後の龍」
甲斐の国(今の山梨県)の武田信玄は、戦国最強とうたわれた騎馬隊を率いる大名でした。越後の国(今の新潟県)の上杉謙信は、「軍神」と呼ばれ、生涯で七十回以上戦ってほとんど負けなかったといわれます。
信玄は「甲斐の虎」、謙信は「越後の龍」。どちらも戦国時代を代表する強さでした。この二人がぶつかったのが、信濃の国(今の長野県)の川中島です。
きっかけは、信玄が信濃へ攻めこんだことでした。土地を追われた信濃の武将たちが謙信に助けを求め、謙信がそれに応えて出兵したのです。謙信は「困っている人に頼まれたから」という理由で、何度も遠い信濃まで軍を進めました。
きつつき戦法と、それを見やぶった男
五回の戦いのうち、もっとも激しかったのが一五六一年の四回目です。
武田軍の軍師・山本勘助が立てた作戦は「きつつき戦法」と呼ばれます。きつつきが木をつついて中の虫を追い出すように、軍を二手に分け、片方が上杉軍の背後をおどろかせ、飛び出してきたところをもう片方が待ちぶせする——そういう作戦でした。
ところが謙信は、これを見やぶります。武田軍の陣で炊事の煙がいつもより多いのを見て、「軍を分けて夜のうちに動く気だ」と読んだと伝えられます。
謙信は深い霧の中、こっそり山を下りました。夜が明けて霧が晴れたとき、待ちぶせしていたはずの武田軍の目の前には、上杉軍が並んでいたのです。作戦を立てた山本勘助は責任を感じ、敵の中へ突撃して討ち死にしました。
一騎打ちの伝説
この戦いには、有名な話が残っています。
馬に乗った謙信がたった一騎で武田軍の本陣に斬りこみ、信玄が軍配(指図に使ううちわ)でその刀を受け止めた——という一騎打ちの伝説です。
本当にあったかどうかは分かりません。それでも長く語りつがれ、その場所とされる八幡原には、今も刀を振り下ろす謙信と、軍配で受け止める信玄の銅像が立っています。
四回目の戦いでは、両軍あわせて八千人以上が命を落としたともいわれます。それでも勝負はつきませんでした。
決着がつかなかった、その後
五回戦っても、どちらも相手を倒せませんでした。信玄は信濃をほぼ手に入れ、謙信は越後を守りきった——引き分けといえる結果です。
けれども二人は、互いを認め合っていたようです。のちに信玄が塩に困ったとき、謙信が塩を送ったという「敵に塩を送る」の話は、このライバル関係から生まれました。
戦い続けた相手を、心のどこかで尊敬していた。川中島は、そんな二人の物語でもあるのです。
川中島の戦いの流れ
| 1553年 | 一回目の戦い。信玄の信濃攻めに謙信が出兵する |
|---|---|
| 1555年 | 二回目。二百日以上にらみ合いが続く |
| 1557年 | 三回目。決着がつかず引きあげる |
| 1561年 | 四回目。きつつき戦法と一騎打ちの伝説。最も激しい戦いになる |
| 1564年 | 五回目。にらみ合いのまま終わり、以後は戦わなくなる |
もっと知りたい 川中島の戦いの豆知識
「きつつき戦法」の名前の由来
きつつきは木をくちばしでつつき、おどろいて出てきた虫を食べます。軍を二手に分け、片方で敵を追い立て、もう片方で待ちぶせする作戦がこれに似ていることから名づけられました。
軍配は指図の道具
軍配はうちわの形をした道具で、大将が兵に指示を出すときに使いました。金属や革でできた丈夫なもので、とっさに刀を受け止められたという話にもつながります。
八幡原の銅像
長野市の八幡原史跡公園には、一騎打ちの場面を再現した銅像があります。今も多くの人が訪れる、川中島の戦いを象徴する場所です。
プリントの見本

A4サイズ・横向きで印刷してお使いください。漢字問題は「鉄・氷・梅」です。
👨👩👧 おうちの方へ
「五回も戦ったのに、どうして決着がつかなかったんだろう?」と聞いてみてください。「どちらも強かったから」と答えられたら十分です。地図で長野県を探して、山梨県と新潟県のあいだにあることを確かめるのもおすすめです。