三方ヶ原の戦いの国語テスト生涯でいちばんの負けを、家康は絵に残した

徳川家康は、負けた戦いをほとんど残していません。ただ一つの例外が三方ヶ原です。しかも家康は、この負けを隠すどころか、自分の情けない顔を絵に描かせて手元に置き続けました。なぜそんなことをしたのでしょうか。
通り過ぎていった大軍
一五七二年、武田信玄が二万五千ともいわれる大軍で西へ動き出しました。京都を目指す進軍です。
その道の先にあったのが、徳川家康の浜松城でした。家康の兵は八千ほど。同盟相手の信長が援軍を送ってくれましたが、それを合わせても一万ほどにしかなりません。
家臣たちは全員が「城にこもるべきだ」と言いました。城にこもれば、信玄は簡単には落とせません。
ところが武田軍は、浜松城には目もくれず、すぐそばを西へ通り過ぎていきました。攻めるまでもない、と言われたのと同じことです。
誘い出すための素通り
家康は城を飛び出しました。家臣が必死に止めても聞きませんでした。
「目の前を通られて黙っていては、三河武士の名がすたる」という思いだったと伝えられます。ここで動かなければ、家臣たちが自分についてこなくなる、という判断もあったと考えられています。
しかしこれこそが、信玄の狙いでした。城を素通りして見せれば、若い家康は怒って出てくる。出てきたところを平地で叩く——そういう計算です。
信玄はこのとき五十一歳、家康は三十一歳。二十年の差が、そのまま経験の差でした。
二時間で崩れた
三方ヶ原の台地で、武田軍はすでに陣を組んで待っていました。魚鱗の陣という、中央を厚くした攻めの構えです。
冬の夕暮れ、戦いが始まりました。武田の騎馬隊が突っ込むと、徳川軍は二時間ほどで崩れます。家康を逃がすために、身代わりとなって討たれた家臣が何人もいました。
家康自身も、あやうく討たれるところでした。恐ろしさのあまり、馬の上で用を足してしまったと伝えられます。城に戻ってから家臣に気づかれ、「これはみそだ」と言い張ったという話も残っています。この逸話は後の時代に作られたものかもしれませんが、それだけ追い詰められていたことを伝えています。
負けを飾っておく
浜松城に逃げ帰った家康は、門を開け放ち、かがり火を焚かせました。追ってきた武田軍は、逆にわなを警戒して攻め込みませんでした。「空城の計」と呼ばれる話です。
そして家康は、絵師を呼びました。恐怖で顔をゆがめた自分の姿を、そのまま描かせるためです。
この絵は「顰像(しかみぞう)」と呼ばれ、家康は生涯そばに置いたと伝えられます。調子に乗りそうになったとき、これを見て思い出すためでした。
この八年後、武田家は滅びます。そして家康は、生涯でただ一人、天下を取るまで大きな失敗をしませんでした。三方ヶ原の負けを忘れなかったからだ、といわれています。
三方ヶ原の戦いの流れ
| 1572年10月 | 武田信玄が二万五千の大軍で西へ動き出す |
|---|---|
| 12月22日 | 武田軍が浜松城を素通りする |
| 同日 | 家康が家臣の反対を押し切って出撃する |
| 同日 夕方 | 三方ヶ原で激突。徳川軍は二時間ほどで崩れる |
| 同日 夜 | 浜松城の門を開け放ち、追撃を防ぐ |
| 1573年4月 | 信玄が病で亡くなり、武田軍が引き返す |
もっと知りたい 三方ヶ原の戦いの豆知識
「顰像」は今も残っている
恐怖でゆがんだ家康の顔を描いた絵で、愛知県の徳川美術館が所蔵しています。ただし、本当に三方ヶ原の直後に描かれたものかどうかは、はっきりしていません。
信玄はこの半年後に亡くなった
三方ヶ原で圧勝した信玄でしたが、その後まもなく病で倒れ、翌年に亡くなりました。信玄がもう少し長く生きていたら、家康も信長も危なかったといわれます。
「空城の計」は中国から来た話
門を開けておいて敵に警戒させる作戦で、中国の『三国志』に出てくる諸葛亮の逸話が有名です。家康や家臣がその話を知っていた可能性があります。
三方ヶ原の戦いのテスト(小学3・4年生用)
印刷せずに、この画面のまま読んで答えることもできます。 答えはいちばん下にあります。
読みもの
一五七二年、武田信玄は、織田信長をたおして天下を取ろうと、二万五千人ともいわれる大軍で京都を目ざしました。その道の先にあったのが、徳川家康の浜松城です。味方だった信長も助けの軍を送りましたが、徳川軍と織田軍を合わせても一万人ほどでした。
ところが武田軍は、浜松城には目もくれず、目の前を通りすぎていきます。まるで「家康など相手にするまでもない」と言わんばかりです。このまま見送れば、家来たちに笑われてしまう。ついに、家康は止められるのも聞かず、城を飛び出しました。それこそが信玄のしかけたわなだったのです。
三方ヶ原で、武田軍は徳川軍をすでに待ちかまえていました。強い騎馬隊におそわれた家康の軍は、二時間ほどでぼろぼろになってしまいました。家康はおそろしさのあまり、馬の上でうんちをもらしながらにげ帰ったと伝えられます。家来に気づかれると「これはみそだ」と言いはった、という話も残っています。
家康は、こわさでゆがんだ自分の顔を絵にかかせました。二度と同じ失敗をしないためです。この負けをわすれなかった家康が、のちの天下人になるのです。
えらぶ問題
文しょうに合うものはどれですか?
- ①家康の軍は武田軍より多かった
- ②信玄は三方ヶ原をさけて通った
- ③家康は止められても城を出た
城を飛び出した家康の気持ちはどれですか?
- ①ゆだんしている
- ②くやしくてたまらない
- ③ほっとしている
書く問題
家康の軍をおそった、武田の強い部隊は何ですか?
家康は、なぜ自分の顔を絵にかかせたのですか?
漢字の問題
かん字に直して書きましょう。
- ⑴のうぎょう
- ⑵やね
- ⑶にもつ
答えを見る
えらぶ問題 ⑴③ ⑵②
書く問題⑴騎馬隊 ⑵二度と同じ失敗をしないため
漢字⑴農業 ⑵屋根 ⑶荷物
書く問題は、答えと言葉づかいがちがっても、 意味が合っていれば○にしてあげてください。
プリントの見本

A4サイズ・横向きで印刷してお使いください。漢字問題は「農業・屋根・荷物」です。
👨👩👧 おうちの方へ
「どうして家康は、負けた自分の絵を残したんだろう?」と聞いてみてください。「忘れないため」という答えにたどりつけたら、この文章の一番大事なところを読み取れています。
A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです
三方ヶ原の戦いの跡を歩く
- 三方ヶ原古戦場静岡県浜松市
今は市街地と畑が広がる台地です。ここが平らな土地であることが、家康にとって不利だった理由そのものです。
- 浜松城公園静岡県浜松市
家康が飛び出し、そして逃げ帰った城です。若き日の家康の像が立っています。
- 徳川美術館名古屋市東区
恐怖でゆがんだ家康を描いた「顰像(しかみぞう)」を所蔵しています。展示される時期は限られます。
※ 開館日・時間・料金は変わることがあります。おでかけの前に、 各施設の公式ページでご確認ください。