山崎の戦いの国語テスト十一日間の全力疾走が、天下を決めた

山崎の戦いのイラスト
山崎の戦いやまざき の たたかい) 1582年山城の国(今の京都府)

本能寺で信長が倒れたとき、羽柴秀吉は二百キロ以上も離れた場所にいました。それでも秀吉は、わずか十一日で戻ってきます。この移動の速さこそが、山崎の戦いの勝敗を決めました。

知らせは、敵の手紙から届いた

一五八二年六月、羽柴秀吉は備中(今の岡山県)で毛利家と戦っていました。京都からは二百キロ以上離れています。

六月二日、本能寺で信長が明智光秀に討たれます。光秀は毛利家に「信長は死んだ、はさみ撃ちにしよう」という手紙を送りました。

ところがその使いが、道をまちがえて秀吉の陣に入ってしまったといわれます。手紙は秀吉の手に渡りました。光秀にとっては、致命的な手ちがいでした。

秀吉は泣きくずれたと伝えられます。しかしすぐに立ち直り、毛利家とその場で和解します。信長の死をまだ知らない毛利家は、これを受け入れました。

「中国大返し」

六月六日、秀吉は軍を返しました。ここからの動きが、後に「中国大返し」と呼ばれる有名な行軍です。

梅雨どきの泥道を、二万を超える兵が進みます。多い日には一日五十キロ以上を歩いたといわれます。よろいを脱がせ、荷物を減らし、道ぞいの村にあらかじめ食事を用意させたと伝わります。

六月十三日、秀吉は山崎に着きました。本能寺の変から、わずか十一日です。

光秀は、秀吉が戻るまでに一か月はかかると考えていたようです。その一か月で味方を集めるつもりでした。しかし秀吉は十一日で現れました。

集まらなかった味方

光秀にとって最大の誤算は、味方が集まらなかったことです。

光秀は、娘の細川ガラシャが嫁いだ細川家をあてにしていました。しかし細川家は動きませんでした。信長への義理を欠く形になることを避けたのだといわれます。

他の大名たちも、様子を見て動きませんでした。主君を討った人物につくことは、自分もいつか討たれても文句が言えないことを意味します。

山崎に着いた光秀の軍は一万六千ほど。対する秀吉の軍は四万近くありました。この差は、そのまま「人がどちらについたか」の差でした。

十三日で終わった天下

六月十三日夕方、両軍は山崎でぶつかりました。天王山という小高い山をどちらが取るかが勝負を分けたといわれ、今でも大事な勝負どころのことを「天王山」と呼びます。

戦いは数時間で決まりました。破れた光秀は、わずかな家来とともに夜の闇にまぎれ、自分の坂本城を目指します。

その途中、小栗栖という村の竹やぶで、落ち武者を狙う村人に襲われて命を落としました。

信長を討ってから、わずか十三日ほど。ここから「三日天下」という言葉が生まれました。実際は十三日ですが、あまりに短かったことを表す言い方として残っています。

山崎の戦いの流れ

1582年6月2日本能寺の変。信長が光秀に討たれる
6月3日ごろ光秀の使いが道をまちがえ、秀吉に知らせが届く
6月4日秀吉が毛利家と和解する
6月6日「中国大返し」が始まる
6月13日山崎の戦い。数時間で決着
同夜逃げる途中、小栗栖で光秀が命を落とす

もっと知りたい 山崎の戦いの豆知識

「天王山」は今でも使う言葉

山崎にある小高い山の名前です。この山を取ったほうが勝つといわれたことから、勝負の分かれ目を「天王山」と呼ぶようになりました。野球やサッカーの実況でも耳にする言葉です。

「三日天下」は本当は十三日

光秀が信長を討ってから山崎で敗れるまでは、十一日から十三日ほどです。「三日」は正確な日数ではなく、「あっという間だった」という意味で使われています。

本当に十一日で歩けたのか

距離と日数から計算すると、かなり無理のある速さです。秀吉が前もって道の準備をさせていた、一部の兵は船を使ったなど、いくつかの説があります。はっきりしたことは分かっていません。

山崎の戦いのテスト(小学3・4年生用)

印刷せずに、この画面のまま読んで答えることもできます。 答えはいちばん下にあります。

読みもの

一五八二年、明智光秀は、自分がつかえていた織田信長をうらぎり、京都の本能寺で信長をたおしました。そのころ羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、信長の命令で、本能寺から遠くはなれた中国地方で毛利家と戦っていました。(  )、信長が光秀にたおされたと知った秀吉は、かたきをうつため、ものすごい速さで軍をひきかえしてきたのです。

二人の軍がぶつかったのが、京都の近くの山崎という所です。秀吉の軍はおよそ四万人に対して、光秀の軍は一万六千人ほどでした。光秀の軍は味方が集まらず、数の上で大きくおとっていました。秀吉とのはげしい戦いにやぶれた光秀は、わずかな家来とともに、夜のやみにまぎれ、自分の城の坂本城へにげました。

にげる光秀が通ったのは、小さな村の竹やぶの細い道でした。このあたりには、にげる武士をおそう村人たちがひそんでいたのです。光秀は村人の竹やりでつかれ、あっけなく命を落としました。

光秀の天下は、わずか十三日ほど。短すぎて、「三日天下」という言葉が生まれました。勝った秀吉は、次の天下人へと進んでいきます。

えらぶ問題

  1. 文しょうに合うものはどれですか?

    • ①光秀は山崎の戦いで勝った
    • ②光秀は竹やりでたおされた
    • ③秀吉はゆっくりもどってきた
  2. 文しょうの(  )に入る言葉はどれですか?

    • ①ところが
    • ②だから
    • ③たとえば

書く問題

  1. 光秀が本能寺でたおした武将はだれですか?

  2. 「三日天下」といわれるのは、なぜですか?

漢字の問題

かん字に直して書きましょう。

  • ⑴ぎょこう
  • ⑵はしら
  • ⑶せきたん
答えを見る

えらぶ問題 ⑴② ⑵①

書く問題⑴織田信長 ⑵光秀の天下が短すぎたから

漢字⑴漁港 ⑵柱 ⑶石炭

書く問題は、答えと言葉づかいがちがっても、 意味が合っていれば○にしてあげてください。

プリントの見本

👨‍👩‍👧 おうちの方へ

「光秀は、どうすれば勝てたと思う?」と聞いてみてください。「もっと味方を集める」という答えが出たら、この戦いの本当の勝因まで読み取れています。

山崎の戦いテストをダウンロード(PDF・無料)

A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです

山崎の戦いの跡を歩く

  • 天王山京都府乙訓郡大山崎町

    勝負の分かれ目を「天王山」と呼ぶ、その語源になった山です。標高二百七十メートルほどで、山頂まで歩いて登れます。

  • 大山崎町歴史資料館京都府乙訓郡大山崎町

    山崎の戦いの経過を、地形の模型などで説明しています。

  • 明智藪(小栗栖)京都市伏見区

    落ちのびる光秀が最期を迎えたと伝わる竹やぶです。今は住宅地の中に石碑が立っています。

※ 開館日・時間・料金は変わることがあります。おでかけの前に、 各施設の公式ページでご確認ください。

この戦いに関わった武将は、小学1・2年生向けの「戦国武将シリーズ」でも読めます。