曹操孟徳の国語テスト才さえあれば、だれでも使った男

A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです
曹操孟徳の基本データ
| 生きた年 | 155年〜220年(六十六歳) |
|---|---|
| 生まれ | 沛国譙県(今の中国・安徽省) |
| よび名 | 孟徳(あざな)/魏の武帝(おくりな) |
| きずいた国 | 魏(ぎ)のもと。自分は皇帝にならなかった |
| 支えた人 | 荀彧・郭嘉・夏侯惇・張遼・許褚ほか |
三国志で長いあいだ悪役をつとめてきたのが曹操です。けれども実際の曹操は、三国の中でいちばん大きな国のもとをつくり、いちばん多くの人材を集め、そのうえ一流の詩を残した人でした。悪役の顔だけで通りすぎるには、もったいない人物です。
期待されていなかった若者
若いころの曹操は、決まりにしばられず遊びまわっていました。まわりの大人は「たいした者にはならない」と思っていたと記録されています。
ただ一人、人を見るのがうまいと評判だった許劭という人物だけは、こう言ったと伝えられます。「君は、世がおさまっていれば有能な家臣、世が乱れれば一世の英雄になる」。曹操はこれを聞いて大笑いしたといいます。
遊んでいた若者が、のちに中国の北側をまとめることになります。ここからの変わりようが、曹操という人のおもしろさです。
梅の林 — 兵の心をつかむ
曹操は、兵の動かし方がうまい人でした。有名なのが「梅の林」の話です。
ある夏、遠くまで軍を進めていたとき、水がなくなって兵たちが歩けなくなりました。曹操は言います。「この先に梅の林がある。すっぱい実がたくさんなっているぞ」。兵たちは梅のすっぱさを思い出して、口の中につばが出てきました。のどのかわきが少しおさまり、また歩き出したと伝えられます。
この話は『世説新語』という逸話集にのるもので、正史『三国志』には出てきません。それでも、人の気持ちをどう動かすかを考え続けた曹操らしい話として、長く語られてきました。
才さえあれば、だれでも使う
曹操の強さは、兵の数よりも人の集め方にありました。「才能さえあれば、身分も、過去のあやまちも問わない」。曹操は実際にこの考えで人を採りました。
袁紹の側にいて曹操を口ぎたなく批判する文章を書いた陳琳を、敗れたあとに許し、そのまま文書の担当として使っています。理由は「文がうまいから」でした。敵だった張遼や賈詡も、降ったあとは重く用いられました。
身内や家がらで人を選ぶのが当たり前だった時代に、これはかなり思いきったやり方です。曹操のもとに人材が集まった理由の一つがここにあります。
官渡 — 食べ物を断つ
二〇〇年、曹操は中国の北側の大勢力・袁紹とぶつかります。兵の数では大きくおとっていました。曹操は正面から戦わず、守りながら機会を待ちます。
そして夜のうちに少数の兵をひきい、袁紹軍の食料置き場・烏巣を焼きました。食べ物を失った大軍はくずれ、袁紹は敗れます。これが官渡の戦いです。
曹操は戦いの前から、兵に田畑をたがやさせて食料を自前でまかなう仕組み(屯田)を整えていました。食べ物が切れて軍がくずれる時代に、これは強力な武器でした。
赤壁の敗北と、詩人の顔
二〇八年、曹操は南側へ進み、のちに蜀を治める劉備と、呉を治めていた孫権の連合軍に、赤壁(今の中国・湖北省のあたり)で大きく負けます。この一戦で中国が三つに分かれることが決まりました。曹操は中国の北側へもどり、二度と南側をまとめることはできませんでした。
その曹操には、まったく別の顔があります。詩人です。「短歌行」などの詩は今も中国で読みつがれ、曹操の時代の文学は「建安文学」と呼ばれて高く評価されています。武将で一流の詩を残した人は、ほとんどいません。
曹操は魏王まで進みましたが、皇帝にはなりませんでした。死ぬ前に残した言葉も、天下を取ろうとした人のものとは思えない細かさです。家に残ったお香の分け方や、妻たちの暮らし方まで書き残しています。
曹操孟徳の年表
| 155年 | 沛国譙県に生まれる |
|---|---|
| 184年ごろ | 黄巾の乱がおこり、軍をひきいて名を上げる |
| 196年 | 献帝を迎え、屯田を始めて食料を自前でまかなう |
| 200年 | 官渡の戦いで袁紹を破り、中国の北側をほぼ手に入れる |
| 208年 | 赤壁(今の湖北省)の戦いで劉備・孫権の連合軍に敗れる |
| 216年 | 魏王となる。皇帝にはならなかった |
| 220年 | 洛陽で亡くなる。六十六歳 |
曹操孟徳のテスト(小学5・6年生用)
印刷せずに、この画面のまま読んで答えることもできます。 答えはいちばん下にあります。
読みもの
中国が魏・蜀・呉の三つの国に分かれて争っていた時代を、三国時代と言います。その中で一番強かったのが魏で、そのもとをつくったのが曹操孟徳でした。
曹操は若いころ、決まりを守らず遊んでばかりいました。周りの大人たちは「たいした者にならない」と話していました。
( ア )、大人になった曹操のもとには、すぐれた人が次々と集まりました。曹操は人を集めることが上手だったのです。もとは敵だった者も、才能があれば家来にしました。曹操について悪く書いた人でも、文章が上手ければ許したと言われています。
曹操は、兵の心をつかむのも上手でした。ある夏、遠くまで軍を進めたとき、水がなくなって兵たちが歩けなくなりました。曹操は言いました。「この先に梅の林がある。すっぱい実がたくさんなっているぞ」。兵たちは梅のすっぱさを思い出して、口の中につばが出てきました。のどのかわきが少しおさまり、また歩き出したそうです。
曹操は、戦いに勝つには食料が重要だと考えていました。( イ )、兵に田畑を耕させ、自分たちの食べる物を自分たちで作らせました。戦いの最中に食料が切れて負ける軍が多かった時代です。これは大きな武器でした。
その重要な食料が、大きな戦いで曹操を勝たせる要因になりました。それは二〇〇年、中国の北側の大きな力・袁紹との戦いの時です。袁紹軍の兵の数は曹操軍の十倍だったと伝えられています。( ウ )、曹操軍は夜間に袁紹軍の食料庫を焼き、長期戦をできなくさせました。その結果、曹操軍は少ない兵で袁紹軍を破りました。
中国の北側をまとめた曹操は、次に南側をねらいました。二〇八年、のちに蜀を治める劉備と、呉を治めていた孫権の連合軍と赤壁(今の中国・湖北省のあたり)で戦い、大きく負けました。この戦いで中国は三つの国に分かれ、曹操が中国を統一することはできませんでした。
戦いに明けくれた曹操には、もう一つの顔がありました。詩です。その詩は千八百年たった今も読みつがれています。亡くなる前には、家族にこんな言いつけを残しました。「家に残っているお香は、妻たちで分けなさい。生活に困ったら、くつを作って売りなさい」。最後に心配したのは、国の行く末ではなく家族の暮らしでした。
えらぶ問題
曹操について、文章の内容に合うものはどれですか?
- ①若いころから決まりを守る、まじめな子どもだった
- ②兵に田畑を耕させ、食べる物を作らせた
- ③赤壁の戦いで劉備たちを破った
文章の( ア )〜( ウ )に入る言葉の組み合わせはどれですか?
- ①ア:つまり イ:たとえば ウ:そのうえ
- ②ア:ところが イ:そこで ウ:しかし
- ③ア:やがて イ:それでも ウ:ところで
書く問題
水がなくなって兵たちが歩けなくなったとき、曹操はこの先に何があると言いましたか。文章中から書き出しましょう。
曹操が、自分について悪く書いた人を許したのはなぜですか。文章をもとに書きましょう。
漢字の問題
漢字に直して書きましょう。
- ⑴きそく
- ⑵ひはん
- ⑶えいきゅう
答えを見る
えらぶ問題 ⑴② ⑵②(ア=ところが/イ=そこで/ウ=しかし)
書く問題⑴梅の林 ⑵その人の文章が上手だったから
漢字⑴規則 ⑵批判 ⑶永久
書く問題は、答えと言葉づかいがちがっても、 意味が合っていれば○にしてあげてください。
プリントの見本

A4サイズ・横向きで印刷してお使いください。
A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです
もっと知りたい 曹操孟徳のこと
「乱世の英雄」と言われた若者
人を見る目で評判だった許劭は、若い曹操にこう言ったと伝えられます。「君は、世がおさまっていれば有能な家臣、世が乱れれば一世の英雄になる」。曹操はこれを聞いて大笑いしたといいます。のちの世では「姦雄(悪がしこい英雄)」という言い方で広まりました。
武将なのに、一流の詩人
曹操は戦いの合間に詩を書きました。「酒に対しては当に歌うべし、人生幾何ぞ」で始まる『短歌行』は、今も中国で広く知られています。曹操と息子の曹丕・曹植を中心とする文学は「建安文学」と呼ばれ、中国文学史の一つの山とされています。
遺言が、こまかい
曹操が死ぬ前に残した言葉(遺令)は、天下を争った人のものとは思えない内容です。「家に残っているお香は、妻たちで分けなさい」「生活に困ったら、くつを作って売りなさい」。墓も飾らず質素にせよと書き残しました。国の行く末より、身近な人の暮らしを心配した言葉です。
👨👩👧 おうちの方へ
読み終えたら「曹操はいい人だと思う? こわい人だと思う?」と聞いてみてください。どちらの答えでも、本文のどこを読んでそう思ったかまで言えたら十分です。人物を一つの言葉で決めつけずに読む練習になります。劉備の回と読みくらべると、同じ時代が別の見え方をします。