劉備玄徳の国語テスト剣ではなく、人の心で天下を取ろうとした男

劉備玄徳のイラスト
劉備玄徳(りゅうび げんとく) 161年〜223年

劉備玄徳の基本データ

生きた年161年〜223年(六十二歳)
生まれ幽州涿郡(今の中国・河北省)
よび名玄徳(あざな)/昭烈帝(おくりな)
建てた国蜀(しょく)
支えた人関羽・張飛・諸葛亮孔明・趙雲ほか

三国志の主人公といえば劉備玄徳です。けれども劉備は、いちばん強い武将ではありませんでした。兵の数でも、土地の広さでも、曹操や孫権にはおよびません。それなのに、なぜ人は劉備についていったのか。三国志を読むおもしろさは、この一点に集まっています。

むしろを売る少年が、桑の木を指さした

劉備の家は貧しく、わらじやむしろを売って暮らしていました。皇帝の血を引く家系だと伝えられますが、そのころにはもう、ただの村の若者でした。

正史『三国志』には、少年時代の劉備について意外なことが書かれています。「読書をあまり好まず、犬や馬、音楽、美しい着物を好んだ」。勉強が好きな優等生ではなかったのです。

ただ、家の東南には高さ五丈(およそ十二メートル)の桑の大木が立っていて、遠くから見ると、身分の高い人が乗る馬車の屋根(きぬがさ)のようでした。幼い劉備はそれを指さし、こう言ったと記録されています。「いつかおれは、あの馬車に乗る」。

親せきの大人は青ざめて「めったなことを言うな、一族が滅びるぞ」と止めたそうです。皇帝の馬車をほのめかす言葉だったからです。

生まれた日はちがっても

劉備のもとに最初に集まったのが、関羽と張飛でした。三人は義兄弟のちぎりを結び、「生まれた日はちがっても、死ぬ日は同じにしよう」とちかい合ったと語られます。

この場面は物語『三国志演義』の「桃園の誓い」として有名ですが、正史にも「寝るときは同じ寝床、その情は兄弟のようだった」と書かれています。ちかいの儀式があったかは分かりませんが、三人の結びつきは本物でした。

のちに関羽が敵に討たれたとき、劉備は国の大事をなげうって敵に攻めこみ、大敗します。合理的な判断ではありません。それでも行かずにいられなかった。そういう人でした。

十万の民を連れて逃げる

劉備の強さは、兵の数ではありませんでした。徳です。徳とは、まわりの人から「この人についていきたい」と思われる人がらのことをいいます。

曹操の大軍に追われたとき、劉備のあとを十万もの民がついてきました。民を連れていては一日に十数キロしか進めません。追いつかれるのは目に見えています。

家来たちは「民を置いて先に行きましょう」と進言しました。劉備は首をふり、こう答えたと伝えられます。「大事を成すには、人が本である」。

結果として劉備は追いつかれ、妻子まで失いかけました。得はひとつもありません。けれどもこの一件が、「あの人は自分たちを見すてない」という評判になって広がっていきました。

三度、若者の家をたずねる

劉備が四十七歳のころ、諸葛亮孔明という二十七歳の若者がいると聞きます。劉備はその家を三度たずねました。一度目と二度目は留守。三度目にようやく会えたといいます。

身分の高い年長者が、無名の若者の家に三度も足を運ぶ。当時の常識では考えられないことでした。これが「三顧の礼」です。

孔明はこの心に動かされ、劉備に仕えます。そして劉備はようやく自分の国を持ちました。蜀です。それまで、根なし草のように各地を転々として二十年以上が過ぎていました。

なぜ劉備は主人公なのか

力でいえば、曹操が圧倒的でした。土地の豊かさでいえば、孫権の呉です。劉備の蜀は三国でもっとも小さく、もっとも遅く立ち上がり、もっとも早く滅びました。

それでも千八百年、三国志の主人公は劉備であり続けています。

理由は、劉備が「持っていない側」だったからだと思います。兵も土地も金もない人間が、人の心ひとつで国を建てた。だから読む人は劉備に自分を重ねられるのです。

劉備玄徳の年表

161年幽州涿郡に生まれる。家は貧しく、むしろやわらじを売る
184年ごろ黄巾の乱が起こり、関羽・張飛とともに立ち上がる
208年曹操に追われ、十万の民を連れて逃げる(長坂の戦い)
208年三顧の礼で諸葛亮孔明をむかえる。赤壁の戦いで曹操を破る
214年益州を得て、ようやく自分の土地を持つ
221年蜀の皇帝となる。六十一歳
223年白帝城で亡くなる。六十二歳

劉備玄徳のテスト(小学5・6年生用)

印刷せずに、この画面のまま読んで答えることもできます。 答えはいちばん下にあります。

読みもの

今から千八百年ほど前、中国では漢かんという大国がかたむき、各地で力のある者が争っていました。その中に劉りゅう備び玄げん徳とくがいました。

劉りゅう備びの家は貧しく、わらじやむしろ(わらであんだしき物)を売って暮らしていました。皇こう帝ていの血を引く家系だと伝えられていますが、そのころはただの村の若者で、兵も土地もお金もありませんでした。

子どものころ劉りゅう備びは勉強がきらいで、犬や馬、音楽、着物が好きだったと言われています。また幼いころ劉りゅう備びは、家の大きな桑くわの木が身分の高い人の馬ば車しゃの屋根のように見えたため、「いつかあの馬ば車しゃに乗る」と言ったそうです。

( ア )、劉りゅう備びのもとには人が集まりました。

はじめに集まったのが関かん羽うと張ちょう飛ひです。三人は義兄弟のちぎり(かたい約束)を結び、生まれた日はちがっても死ぬ日は同じにしようとちかいました。

劉りゅう備びには、ほかの英えい雄ゆうにないものがありました。それは徳です。徳とは、まわりから「この人についていきたい」と思われる人がらです。

その徳が表れている話があります。ある時、強い敵に攻せめられた劉りゅう備びが逃にげると、民が十万人もついてきました。民がいては敵に追い付かれます。家来が「民を置いていきましょう」と言いました。( イ )劉りゅう備びは首をふりました。「大きなことをするには、人がいちばん大事なんだ」と言って、命があぶなくても民を置いていかなかったと言われています。

そして、三さん顧この礼れいという有名な話もあります。劉りゅう備びは土地がなかったため、国を持つ道すじを教えてくれる人を探していました。そこで、頭の良さで知られる諸しょ葛かつ亮りょう孔こう明めいを訪たずねました。しかし、一度目も二度目も孔こう明めいは留守でした。五十歳さい近い劉りゅう備びが二十七歳さいの若者である孔こう明めいの家に三度も通うのは、当時は考えられないことでした。

そこまでして会いに来た熱意に心を動かされ、孔こう明めいは劉りゅう備びに仕えます。( ウ )、劉りゅう備びはようやく自分の国を持ちました。それが蜀しょくです。中国の北側をとった曹そう操そうにも、南側の豊かな土地を治める孫そん権けんにも、力では及およびませんでした。けれども劉りゅう備びには人がついてきます。劉りゅう備びが最後まで持ち続けたのは、剣けんではなく人の心でした。

えらぶ問題

  1. 劉りゅう備びについて、文章の内容に合うものはどれですか?

    • ①皇こう帝ていの子として大きな国を受けついだ
    • ②曹そう操そうより強い兵を持っていた
    • ③逃にげるときも民を置き去りにしなかった
  2. 文章の( ア )〜( ウ )に入る言葉の組み合わせはどれですか?

    • ①ア:だから イ:つまり ウ:それで
    • ②ア:やがて イ:ところが ウ:こうして
    • ③ア:たとえば イ:それでも ウ:ところで

書く問題

  1. 劉りゅう備びが孔こう明めいの家を三度たずねたことを何といいますか。文章中から書き出しましょう。

  2. 劉りゅう備びが家来の言うとおりに民を置いていかなかったのは、なぜですか。文章をもとに書きましょう。

漢字の問題

漢字に直して書きましょう。

  • ⑴こころざし
  • ⑵そんけい
  • ⑶ぶしょう
答えを見る

えらぶ問題 ⑴③ ⑵②(ア=やがて/イ=ところが/ウ=こうして)

書く問題⑴三さん顧この礼れい ⑵大きなことをするには人がいちばん大事だと考えていたから

漢字⑴志 ⑵尊敬 ⑶武将

書く問題は、答えと言葉づかいがちがっても、 意味が合っていれば○にしてあげてください。

プリントの見本

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A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです

もっと知りたい 劉備玄徳のこと

ふとももの肉を見て泣いた「髀肉の嘆」

四十を過ぎても自分の国を持てずにいたころ、劉備はふとももに肉がついているのに気づいて涙を流しました。「馬に乗って戦い続けていたころは、こんな肉はつかなかった。何も成しとげないまま年ばかりとってしまった」。ここから、実力を発揮する機会がないことを嘆くのを「髀肉の嘆」といいます。

耳が大きく、手が膝まで届いた

正史には「身長七尺五寸、手を垂らすと膝を過ぎ、振り返れば自分の耳が見えた」と書かれています。七尺五寸は当時の単位でおよそ一七〇センチ。手が膝を過ぎる、自分の耳が見える——どちらも、当時は英雄の相とされた特徴でした。

「三国志」と「三国志演義」は別物

正史『三国志』は西晋の陳寿が三世紀に書いた歴史書です。いっぽう『三国志演義』は、それから千年以上あとの明の時代に書かれた小説。桃園の誓いや、孔明が風を呼ぶ場面は演義の創作です。このサイトでは、正史で確かめられることを中心に書いています。

👨‍👩‍👧 おうちの方へ

読み終えたら「どうして劉備には人が集まったんだと思う?」と聞いてみてください。「強かったから」ではない答えにたどり着けたら、文章をしっかり読めています。歴史の勉強は小学6年生からですが、人物から先に入ると、あとで年号を覚えるのが楽になります。

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