大坂冬の陣の国語テスト鐘に刻まれた四文字から、戦が始まった

A4・横向き/1枚目が問題、2枚目が答えです
戦いのきっかけは、お寺の鐘に刻まれた四つの文字でした。言いがかりのような理由で始まったこの戦いは、真田幸村の活躍で徳川軍を苦しめます。ところが講和の条件が、大坂城の運命を決めてしまいました。
鐘の四文字が、戦のきっかけになった
一六一四年の冬、徳川家康が大軍で大坂城を囲みました。相手は、豊臣秀吉の子・秀頼です。
きっかけは、豊臣家が建てたお寺の鐘でした。その鐘には「国家安康」——国の平和を願う言葉が刻まれていました。
ところが家康は、こう言っておこったのです。「『家』と『康』、わしの名前を二つに引きさいている。無礼ではないか」。
今の感覚では、言いがかりに近い理由です。けれども当時、家康は豊臣家をほろぼす口実を探していました。この鐘は、そのきっかけとして使われたのです。
十万人が集まった大坂城
大坂城には、秀頼を守るために全国から十万人近い武士が集まりました。関ヶ原の戦いで負け、行き場を失っていた武士たちです。
その中でとくに有名なのが、真田幸村でした。
幸村は城の南側に「真田丸」という出丸——本体の城から突き出した小さなとりでを築きます。大坂城は三方を川や堀に囲まれていましたが、南側だけは平らな土地で、攻められやすい弱点でした。幸村はそこを見ぬいて、あえて最も危ない場所にとりでを造ったのです。
徳川軍が南から攻めよせると、真田丸から鉄砲がいっせいに撃ちこまれました。攻める側は何度も突撃しましたが、そのたびにはね返されます。徳川の大軍は、この小さなとりでを最後まで抜けませんでした。
大砲の音が、城の中を変えた
攻めきれない家康は、作戦を変えました。
外国から買った大砲を運びこみ、城に撃ちこんだのです。当時の日本には、これほど遠くまで届く大砲はほとんどありませんでした。
そのたまは、秀頼の母・淀殿がいる建物の近くまで飛んできました。すぐそばで大きな音がして、天井が崩れ落ちたと伝えられます。
城の中はふるえ上がりました。武士たちは戦えても、女性や子どもたちにとっては恐ろしいことです。ついに豊臣家は、家康が持ちかけた休戦を受け入れました。
堀をうめる、という条件
ところが、休戦の条件は「大坂城の堀をうめること」でした。
堀は、敵が城に近づくのを防ぐ、いちばん大切な守りです。大坂城は秀吉が築いた、当時の日本でもっとも堅い城でした。その強さは、深く広い堀に支えられていたのです。
豊臣方は「外側の堀だけ」という約束のつもりでした。ところが徳川方は、内側の堀まで次々にうめてしまいます。抗議しても、工事は止まりませんでした。
堀を失った大坂城は、もう城として守ることができません。そして次の年の夏、ふたたび戦いが始まります。大坂夏の陣です。豊臣家は、ここでほろびることになりました。
大坂冬の陣の流れ
| 1614年7月 | 方広寺の鐘の「国家安康」を家康が問題にする |
|---|---|
| 1614年11月 | 徳川軍が大坂城を包囲。冬の陣が始まる |
| 1614年12月 | 真田丸の戦い。幸村が徳川軍を何度もはね返す |
| 1614年12月 | 家康が大砲を撃ちこみ、豊臣方が休戦を受け入れる |
| 1615年 | 堀をうめられた大坂城で夏の陣が起こり、豊臣家がほろびる |
もっと知りたい 大坂冬の陣の豆知識
「国家安康」の鐘は今も残っている
京都の方広寺には、問題になった鐘が今も残されています。「国家安康」の四文字には印がつけられていて、実物を見ることができます。
真田丸の場所は今の大阪市
真田丸があったのは、今の大阪市天王寺区あたりと考えられています。近くには真田幸村をまつる神社があり、当時をしのぶことができます。
冬の陣と夏の陣
一六一四年の冬に起きたのが「冬の陣」、翌一六一五年の夏に起きたのが「夏の陣」です。二つ合わせて「大坂の陣」と呼び、戦国時代最後の大きな戦いとされています。
プリントの見本

A4サイズ・横向きで印刷してお使いください。漢字問題は「緑・笛・練習」です。
👨👩👧 おうちの方へ
「どうして堀をうめる条件をのんでしまったんだろう?」と聞いてみてください。「大砲がこわかったから」と答えられたら、話の流れが読めています。約束のしかたで結果が変わることを話すきっかけにもなります。